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2013年9月14日 (土)

『修業論』(内田樹著)どうして「修行」論ではなく、「修業」論なのか、よくわかりまでんでした。

まずタイトルに違和感があった。武道の「しゅぎょう」を言う場合、普通は「修業」という言葉よりも、「修行」という漢字を使うのが普通ではないかと思ったのだ。


goo国語辞書によると、

しゅ‐ぎょう〔‐ゲフ〕【修業】ツイートする Facebook にシェア
[名](スル)学問や技芸を習い、身につけること。しゅうぎょう。「―中の身」「師のもとで―する」「花嫁―」

しゅ‐ぎょう〔‐ギヤウ〕【修行】
[名](スル)
1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。
2 托鉢(たくはつ)・巡礼して歩くこと。「全国を―する」
3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を―する」「武者―」


goo類語辞書によると、

「修行」は、もと仏教語で、武芸などに用いられたが、現在は幅広く使われる。
「修業」は、「しゅうぎょう」とも読み、その場合は学問、技芸などを習い身につけることをいう。


内田先生がここで述べられていることは、どちらかというと「修業」(おわりのあること)よりはむしろ「修行」(おわりのないこと)の方が近い。どうして「修行」ではなく「修業」なのだろうか、謎だ。


それはさておき。閑話休題。

内田先生は過去にも武道家の方との共書で武術についての本をいくつか上梓されている。その中のいくつかを読ませていただいたのだが、私にとっては武道家の方の言葉が異次元の言葉のようで、まったく私の身体の中に入ってこなかった。私の身体感覚が武道家の身体感覚と全く違うせいなのだろう。そう自分に言い聞かせてそれらの本はたぶんもう二度と読み返すことはないだろう、と思いながらも本棚に仕舞ってある。

今回は内田先生おひとりで書かれたものである。なので少しは私の身体の中に入ってくることを期待していた。しかし、私がわかりやすかったのは、やっぱり、どうして司馬遼太郎が「修業」というものを軽んじ、もしくは忌み嫌っていたか、という部分だった。「修業」というものがわからないひとの例えとして内田先生は司馬遼太郎を挙げられているが、それはまさに私が「修業」というものがわからないということにも通じていると思えた。

しかし、私は、AというインプットはBというアウトプットを生みだすはず、だとか、何かを始める前にまずCというアウトプットを提供せよ、と言いだす人間ではない。そういう効率主義者の意見だとか消費者マインドからは程遠い人間だと私は思っている。ただ、「修業」というものの感覚が全くわからないのだ。私が「修業」というものをわかるようになるためにはもうひと押し必要なようである。



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