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2013年5月22日 (水)

『希望論―2010年代の文化と社会』(宇野常寛,濱野智史著)「終わりなき日常が終わった」という言い分に与さないことがこれからの希望。 

宇野常寛さんと濱野智史さんという、新進気鋭の論客による対話。彼らの世代はロストジェネレーションだとか失われた10年だか20年だかという希望のない、希望の持てない世代と喧伝されているが、そんなことはないだろう、ということを言いたいのだろう。宇のさんが「希望論」というタイトルが気に入らなかったようだが、彼らの世代の外から彼らに与えられる文脈においては、希望の持てない世代がいかにして希望を持つつことができるのか(それは時に希望を持たせることができるのか、という不遜なもの言いすらされる)がテーマになってしまう。そういう文脈を、余計なお世話だ、という姿勢は正しい。

かって「終わりなき日常を生きる」と言っていた世代が、3.11というデカイ一発を目の当たりにして「終わりなき日常が終わった」みたいな言い方をするのには私はとても違和感を持っていた。宇野さんや濱野さんもそういう違和感を持っていたようだ。例えデカイ一発が来たとしても、「それでも日常は続いて行く」のである。「終わりなき日常が終わった」という言い分は、つまりは思考停止であり、言い逃れである。「終わりなき日常が終わった」という言い分に与さないことがこれからの希望なのかもしれない。 

この日本列島に原子力発電所をバンバン作り、日本の原子力発電所は安全です、原子力発電所を誘致して入ってくるお金をアテにしたのは彼らの1世代前、2世代前のひとたちかもしれない。もちろん、そういうひとたちはこの事態に対する責任を負うべきだ。しかし、彼らに責任を押し付けても、自分は安全圏に逃げることなどできないのだ。原子力発電所の事故の終息にはあと数十年かかるだろうし、それが生み出す廃棄物の処理には下手をすれば数万年かかってしまう。申し訳ないけれど、そういう現実の中で、生きていかなくてはらないのだ。

この対談で、宇野さん、濱野さんはインターネット、SNSなどによる個人と個人のつながりや表現に可能性を見出しているように思える。これからは自分からゲームに参加して自分でゲームを作っていく時代なのかもしれない。

ところどころには面白い指摘があるのだけれど、対談という形式でそれが流れているのが残念。宇野さんは何冊か本を出されているので、いつかじっくり読んでみたい。


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