『超訳 論語』(安冨歩著)安冨さんの「超訳」は、「学習回路」を常に開いて生きなさい、という「論語」である。
最近、「超訳」という冠がついた本を良くみかける。時間のないひとや、手っ取り早く○○がどんな言葉を残したのかを知るためには良いことなのかもしれない。しかし一方で、このようなことはないだろうか。
・超訳とはあくまで著者(訳者?)がなんだかの意図を持ってエッセンスだけ取り出したものである。
・著者(訳者?)が○○の言葉を自分にとって都合の良い言葉だけをピックアップして、もしかすると著者(訳者?)にとって都合の悪い言葉をバッサリ切り落としているかもしれない。
・それを鵜呑みにすることは、○○の言葉を著者(訳者?)の読み方そのものを鵜呑みにすることであり、○○の言葉そのものを知ることにはならないのではないか。
つまり「超訳」というのは、○○の言葉そのものではなく、あくまで著者(訳者?)の解釈した言葉である。ということを前提として読まないと、危険かもしれない。そうやって割り引いて読むことが大切ではないかと思う。
安冨さんの「超訳」は、冒頭で、安富さんが「論語」の思想を次のように捉えていると宣言している。
「『学習』という概念を人間社会の秩序の基礎とする思想である。」と。
「学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。」で始まる「論語」は、「学習」の喜びに人間の尊厳と人間社会の秩序の形成の基礎であり、「学習回路」を常に開いている状態が「仁」であるとする。逆に「悪」とは「学習回路」が閉じた状態であるとする。「学習回路」が開いている状態であればものごとを良い方向に良い方向に導くことができるが、「学習回路」が閉じている状態であればものごとを悪い方向に悪い方向に導いてしまう。
安冨さんの「超訳」は、「学習回路」を常に開いて生きなさい、という「論語」であり、そのためのきっかけとなる「論語」の言葉を紹介したものになっている。安冨さんが別の著書で言う「東大話法」というものは、ある程度頭は良いかもしれないが「学習回路」が閉じたひとが使う言葉だと言えるだろう。そして、同時に「東大話法」に振りまわされることも、その嘘が見抜けないことも「学習回路」がまだ十分に開いていないからだ、と言えるかもしれない。
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