映画『遺体 明日への十日間』 「ひと」は、亡くなっても「ひと」である。
映画『遺体 明日への十日間』reunion
監督:君塚良一
2011年3月11日、国内観測史上最大規模の地震が発生し、大津波が岩手県釜石市を襲った。廃校となった中学校が遺体安置所として使われることになる。遺体安置所には次々と遺体が搬送されてくる。混乱状態が続く中、この地区の民生委員・相葉(西田敏行)が遺体安置所を訪れ、その光景を目の当たりにし、言葉を失う。やがて、相葉を中心に、犠牲になった人たちの尊厳を守りつつ、一刻も早く家族と再会させようと、市役所の職員などが懸命に対応していく。
このドラマは実話に基づいている。しかも、2年前の、同じ日本で起こった未曾有の災害を題材にしている。嘘は通用しない。嘘が見えては、この映画は作品として成立しない。
行政はまず「生き残った」ひとたちのために動く。報道も「生き残った」ひとたちのことを伝える。それは間違ったことではない。それでも、行政は「亡くなった」ひとたちのことを考えなかったわけではないし、報道も「亡くなった」ひとたちのことを伝えなかったわけではない。ただ、その事実が私たちの目に見えにくかっただけだ。この映画は、その私たちの目に見えにくなった事実をあらためて見せてくれる。
未曾有の災害により、多くのひとたちが犠牲になった。それは、「理不尽」としか言いようがない。遺体安置所には、医師にとって自分の患者だったり、親友であったり、お世話になったひとたちが、遺体として運ばれてくる。それでも、医師は医師の、歯科医は歯科医の、やるべきことをやるしかない。
市役所の若い職員は、遺体安置所の光景を目の当たりにし、立ちすくむしかなかった。それはそうだろう。誰もがこのような経験をしたことがないのだから、何をすれば、どうすれば良いのか、わかるはずがない。しかし、立ちすくむだけだった彼らも、だんだんと、亡くなったひとたちを弔わおう、遺されたひとたちを慰め励まそう、という気持ちが湧いてくる。そして、一歩前に踏み出していく。
そこに英雄がいたわけではない。強いリーダーがいたわけではない。それでも未曾有の事態の混乱から、だんだんと自分のやるべきことを見出し、秩序を作っていく。亡くなった対する尊厳、日本人が伝統的に持っているその想いが、原動力となって現場を動かしていく。「ひと」は亡くなっても「ひと」である。その「ひと」への接し方がその「ひと」の尊厳を守るものである限りは。亡くなった「ひと」に話しかけても、亡くなった「ひと」は語り返さない。しかし、それでも、亡くなった「ひと」の声を聴くことができる。そんな心を日本人は伝統的に持ってきた。
大津波から10日経っても、遺体は次々に運ばれてくる。やるせない、いつまで続くかわからない戦いを、釜石のひとたちは、東北のひとたちは耐えしのんでいる。私たちは決してそれを忘れてはいけない。
映画「遺体 明日への十日間」予告編
→ この映画を観るべき、と私は言わない。この予告編を観て、みなさんが決めてもらえば良い。
【公式】映画『遺体 明日への十日間』SPインタビュー【西田敏行】
→ この映画は西田敏行なくして成り立たなかった。この役者の演技には、全く嘘が見えなかった。
↓原作はこちら。私はまだ原作を手にする決心がつかない。
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