『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著) 「お前はすでに死んでいる」。だから、死を怖れることなどない。
ひとは致死率100%の生き物である。いずれ死ぬことがわかっているはずなのに、ひとは死ぬのが怖いと思ってしまう。どうしてひとは死ぬのが怖いのか、そしてどうすれば死ぬのが怖いということを受け入れることができるのか、について、この本では、科学的、論理的に考察していく。
まず、前野さんは、「死ぬのが怖い」のは進化のオマケだと言う。進化によって、ひとが未来を予測できる能力を身につけたことで、自分自身の究極の未来=死について予測する能力も付随して身に付けたのだと。そして、死について考える力とともに、ものごとを恐れる情動の能力を身につけてしまい、死について恐れるようになったのだと。
その恐怖を乗り越えるために、ひとは宗教を生みだす。あの世、天国、輪廻転生。しかし、前野さんは、そのようなものは科学的に全く根拠のないものとしてバッサリと切り捨てる。では、あの世、天国、輪廻転生を信じずに、死ぬのが怖くなくなるためにはどうすれば良いのか。
そもそも、私たちがあると思っている「心」。それは「生きている」という実感、そしてそれが失われる「死ぬのが怖い」という実感を生み出してる。しかし、そもそも「心」というもの自体が「幻想」なのだと言う。そもそも「ない」のだから、「ない」ものを失うことを怖れることはない。
つまりは、「お前はすでに死んでいる」@ケンシローなのだ。私たちは「心」というものをもち、「自由意思」で生きているように思っている。しかし、「心」というものが幻想で、私たちが「自由意思」と言っているものが、私たちが意思決定する10秒も前にすでに決定されているとしたら、生きている、ということはやはり「幻想」でしかない。
私たちは「心」があり、自分の意思で「生きている」と思うから、自分に執着をしてしまう。だから、なおさらそれを奪い失わせる「死」というものを怖れる。なかなか、「心」も「生きているという実感」も幻想だと言われても、おいそれと受け入れることは難しいかもしれない。しかし、自分への執着を軽減し和らげれば「死」への恐怖もまた和らいでくるのではないだろうか。でも、それって、言葉で言うのは簡単だけれど、なかなかひとは自分に執着することを止められないものではないだろうか。
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