『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48』(濱野智史著)キンタロー。はキリストを超えた?!
「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」というキンタロー。…じゃなかった、アイドル史上に残るであろう前田敦子の名言から、著者はAKB48と宗教、とりわけ原始キリスト教との類似性を見出し、「〈宗教〉としてのAKB48」を語ろうとする。
著者によると、AKBの総選挙の投票結果発表の場は、キリストにとっての「ゴルゴタの丘」である。AKBのセンターというポジションをめぐる争いのために、AKBのセンターを得た者は2つのアンチという迫害者という厳しい目に耐えなくてはならない。アンチとは、第一に「AKBそのものが嫌い」な者たちであり、第二に「AKBのファンだが前田敦子が嫌い」な者たちである。アンチはネット上や現場(専用劇場での公演や握手会など)で時に心ない言葉や態度を、センターを得た者に突きつける。それはキリストの迫害者たちとかぶる。キリストが十字架を背負って、迫害者たちに汚い言葉や石を投げつけられてゴルゴダの丘まで歩いたように、前田敦子も十字架を背負って、迫害者たちに汚い言葉や石を投げつけられてゴルゴダの丘まで歩く。
何故、か弱き少女たちが、そんな苦難に耐えうるか、というと、それは現場でのファン(信者)との交流にあると言う。手に入り難い劇場公演のチケットをゲットしたり、わずか数秒言葉を交わすために千円のCDを購入する信者たちの言葉や応援が彼女たちの心の支えとなっている。
迫害者がいるからこそ信者の結束が高くなり、信者が結束して教祖のために自分のお金も生活も自分の身すらもすべて献じ、教祖を守る、という構造は、新興宗教と全く同じ構造だ。私からすれば、AKBは主に若年層から貴重な財産を効率に巻き上げる、かなりアコギな新興宗教である。なので、そんなAKBという宗教が世界に平和をもらたす、という著者の言い分には、もう呆れて笑うしかない。
そして、この本の論理に従うならば、今、前田敦子のモノマネでブレイクしているキンタロー。もキリストを超えた、と言える。AKBのファン、前田敦子のファンという迫害者たちに汚い言葉や石を投げつけられながらゴルゴダの丘に向かって歩いているキンタロー。もまた、前田敦子と同じように、キリストを超える存在になるはずである。
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