『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(M・スコット・ペック著,森英明訳)「邪悪な」ひととは、自分の「不完全さ」を克服することを怠ったひとたちのことである。
『平気でうそをつく人たち』というタイトルだが、むしろ、「邪悪」とはどういうことなのか、「邪悪なひととは」どういうひとのことなのか、ということについて書いてある本。
著者は、悪について、次のように定義している。「精神的な成長を回避するために政治的な力を行使すること-すなわち、あからさまな、または隠れた強圧をもって自分の意志を他人に押し付けること。」
邪悪な人間は、自分の「不完全さ」を直視できない。自分が「完全でない」ことを隠すために、彼らは他人を欺き、他人を攻撃する。この本の原題は"PEAPLE OF THE LIE"、直訳すると「虚偽の人々」だが、彼らは自分の「不完全さ」を隠すために他人を欺き、同時に自分をも欺いている。
こういう考え方は、キリスト教の教えに根底があるようにも思える。神は絶対であり、神と契約をした人間もまた「絶対でなくてはならない」。すなわち、神と契約をした人間は、「完全」でなくてはならないのだ。その考えに固執してしまうと、自分の「不完全さ」を認められなくなる。自分の「不完全さ」は克服していくべきものである(それを「成長」と呼ぶのだ)が、その努力を怠り、自分の「不完全さ」を隠そうと、隠そうとするひとたちもいる。そして、そういうひとたちは自分の「不完全さ」を他人から裁かれるのを恐れ、それゆえに他人に対し嘘をつき攻撃的にならざるをえなくなる。
しかし、同じく、聖書には、このような言葉がある。
「汝ら人を裁くな、裁かれざらんためなり。
己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。
何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、己が目にある梁木を認めぬか。
視よ、己が目には梁木のあるに、いかで兄弟にむかいて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。
偽善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。」
(マタイ伝福音書―第7章)
他人を裁く前に、まず自分を見つめ直せ、とキリストは言っているのにも関わらず、「虚偽の人々」はそれができない。
しかし、これはキリスト教の教えだけの問題ではない。私たちの隣人でも、なかなか自分のミスや不作為を認めず、他人のせいにするひとたちは、かなりいる。彼らのすべてが邪悪なひとだと言うことはできない。しかし、それが軽度のものであれ、自分の「不完全さ」を克服しようとしないのは、彼らから成長の機会を奪ってしまう。
人間は神ではないのだから、「完全な」人間などありえない。「完全な」人間になるべきかどうかは意見の分かれるところかもしれないが、まず、自分の「不完全さ」を受け容れることが肝要である。自分の「不完全さ」と向き合い、克服しようとすることが、すなわち「成長」である。そして「成長」こそが、生きる、ということなのだろうと思う。
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