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2012年6月 1日 (金)

『コミュニケーションは、要らない』(押井守著) コミュニケーションよりも、核バクダンの方が要らない。

アニメーション作家である著者による、コミュニケーション論、というか、日本人論。東日本大震災後のコミュニケーションの在りようから、日本と日本人を論じている。

東日本大震災では、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルネットワークサービスが注目された。安否情報など、マスではない個人目線の情報がマスメディアから発せられる情報よりも有効であったこともあった。ユーストリームなどでノーカットで中継された東京電力などの会見の模様は、ダイジェストでしか伝えないマスメディアよりも、こっちの方が良いと思われもした。そういう情報は大きな流れとなり、ひとを動かした。そして、それをもって、これは革命だ、という意見も聞かれるようになった。果たしてそうなのだろうか?

『コミュニケーションは、要らない』とはなんとも大胆なタイトルであるが、著者が要らないと言うコミュニケーションとは、家族や友人や職場や同じ趣味といった親しいひとの間で交わされる会話のことを指す。そこでは、「協調」や「同調」、「妥協」、「慣れ合い」が許される世界であり、人間関係を円滑にするために「嘘」が許される世界である。そこではただ気分を吐きちらす言葉が許されるし、あまり深く考えずにメールの送信ボタンが押せる。真偽の不確かな情報も流通するし、例えそれが嘘だったとしても糾弾されることもない。

著者の考えるコミュニケーションとは、そういう仲間内で人間関係を円滑にするものではない。「異質なもの」といかにつきあうか、ということがコミュニケーションである。そこではいきなり「協調」が得られることは、ない。お互いの探り合いから始まる。真剣に相手に向き合わないと、下手をすると命をとられるかもしれない。そいう世界では「慣れ合い」は許されない。一歩誤れば、「戦争」に発展する。「戦争」もまた、コミュニケーションの形態の1つである。そして、「戦争」というものを避けることに慣れてしまった日本人は、そういう「真剣な」コミュニケーションをとることができない、それが「本質的な」問題について議論し結論をだすことができなくなってしまった、というのが著者の言いたいことなのだろう。

そして、その最たる問題が、原子力発電所の問題である。福島原子力発電所の原子炉が最新のものではなく、初期型のプロトニュームが取り出せない古い型を採用しているがために、そこから撒き散らされた放射能の被害が広がったと言える。では、何故、そんな危なっかしい古い型が今まで稼働し続けていたのか。それは、日本が「非核三原則」を固持してきたからである。核兵器を搭載したアメリカ軍の艦船が日本国内にある基地に駐留していただろうし、「非核三原則」は形骸化しているのかもしれない。しかし、日本は「非核三原則」を固持してきた。一方で、日本は原子力発電を推進してきた。イランや北朝鮮のように原子力開発は原子力爆弾の開発とセットである。日本だって、原子力発電所からプロトニュームが取り出せると、核爆弾を作れてしまう。そこを敢えて、日本は核爆弾を作りませんよ、と国際的にアピールするために、わざとプロトニュームが取り出せない古い型を採用せざるを得なかった、というのだ。

自由民主党の石破茂氏の持論は、「原子力発電所を持つことは核の潜在的抑止力」である。日本には原子力技術もロケット技術もある。だから、もし何かあったときには1年以内に核爆弾を作れるぞ、というのが核抑止力ということだそうだ。日本も核爆弾をもって一等国の仲間入り(それを普通の国というらしい)すべきだと言うのだ。著者もこの意見に同調しているようである。
しかし、核兵器を持つ、という意味をこのひとたちはそれこそ真剣に考えているのだろうか。核爆弾を持つ、ということは、逆に核爆弾を落とされてても文句を言えないという覚悟を引き受けることである。もちろん、先の大戦のように、核兵器を持つ国が核兵器を持たざる国に対して核爆弾を落とすこおとがあるだろう。しかし、核兵器を持ってしまえば、自国に対して核兵器を使われるリスクは高まる。核兵器は使われる前に使う、先制攻撃しないと意味がない兵器だからだ。

私は「日本は核兵器が作れるけど、敢えて作れない国ですよ」という態度を固持することが日本が生き延びる道だと思う。日本はそういう世にも珍しい国であって良いと思う。何故日本は核兵器を持たないのだろう、と世界中から不思議がられる国であって良いと思う。だって、「あなた方は核爆弾を落とされたことがないでしょう。核爆弾が落とされるということがどういうことかわからないでしょう。」と切実に訴えることができる国はこの地上で日本だけなのだから。

私は押井守氏の作品をよく観ている。このように押井氏とは意見が異なるけれども、押井氏の作る映像世界は私の興味をそそる。それは私にとって「異質なもの」だからだ。今やネットは自分の世界、自分がつながる世界、自分が求めることにしか答えを示さない世界になっているかもしれない。しかし、ひとはそれだけにとどまれるものではない。押井氏の言うコミュニケーションとは呼べない世界にだけとどまれるものではないのではないか。ひとはやはり「異質なもの」を求めずにはいられないものなのではないだろうか。

「終わらない日常」がずっと続いていくと思いこんでいるひともいるかもしれない。しかし、押井氏の作品は、「終わらない日常」を描きつつもそれがずっと続くということがどういうことなのか、という問題提起も同時にしていたはずである。自分の作品の力を、自分の作品を受け取ったひとたちのことを、著者はもっと信じても良いのではないだろうか。



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