『日本の文脈』(内田樹、中沢新一著) 私たちは自然というものを超越した原子力という「荒ぶる神」の鎮め方を知らなかった。
内田樹センセーと中沢新一さんの対談をまとめたもの。表紙は福島第一原子力発電所の写真。3.11後、日本の文脈は変わったのか、それとも変わらないのか。もちろん、変わったのだろう。
中沢新一さんはニューアカデミズムの旗手として、1970年代から第一線で活躍されているひと。震災後、日本版みどりの党のたち上げに動くなど、注目されている。その中沢さんと同期だという内田センセーと中沢さんの対談は、「内田」「中沢」という発言者をあまり感じさせない、まるでひとりがしゃべっているように淀みなく進んでいく。淀みなく、といったが、話の話題は紆余曲折、高台に落ちた一滴の水の滴が、下へ下へ思い気ままに流れていき、大きな河の流れになるかのようでもある。
原子力は「荒ぶる神」であり、「人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう『折り合って』いけるか」という問いかけに対し、「お金儲けの道具」という安易な答えに自らを納得させようとしたところに、フクシマの問題がある。これまで、人間は自然界から自分の力の及ぶ範囲でエネルギーを手にしてきた。しかし、核融合という自然界から自然なやり方に反して無理やりに手にしたエネルギーを、ひとはそう易々とコントロールできるものではない。それはまず、戦争に使われヒロシマとナガサキに投下された。イラクでは劣化ウラン弾が使われた。そして平和利用という名の下、アメリカから原子力発電が輸入され、原子力発電に群がる利権を生み、それが「お金儲けの道具」という、あたかもひとの理解と制御可能なものとして粗雑に扱われた結果が、フクシマの原子力発電所の事故と、事故後の対応につながった。
「荒ぶる神」の鎮め方。私たち日本人は元来、自然という「荒ぶる神」を鎮めることに苦心してきたが、自然というものを超越した原子力という「荒ぶる神」の鎮め方を私たちは知らなかった。フクシマから放射された放射線はこの先何十年、何百年も日本の国土に残る。私たちはそれとどう『折り合って』いけるのか、その答えをいま、ここに生きている私たちは探し求めなければならない。
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