『株式会社という病』(平川克美著) 巷にはビジネス書と呼ばれるものが溢れているが、ビジネス書はビジネスの答えを教えてはくれない。
繰り返される企業の不祥事は愚かな経営者やその企業特有の原因に帰結するものなのだろうか。そうではなく、株式会社というシステムそのものに問題の根っこがある、ということがこの本の結論であり、スタート地点である。株式は資金調達を経営から分離し、効率よく資金調達する手順であるが、そうであるがゆえに投資家は短期での資金回収と株式の値上がりを求め、その要求により株式会社は、より一層と短期での利益追求に走る。それによって品質や安全が犠牲になり、そこで働くひとたちの生活が犠牲になる。
会社はお金を稼がなくては存続できないのだ。しかし、「お金儲けをして何が悪い」という開き直りをされるとどうなるか。そもそもそういうことを表に出すこと自体、品のないことなのだ。そのうえ、「お金儲けをして何が悪い」というその開き直りは企業活動の責任を曖昧にしてしまう。
巷にはビジネス書と呼ばれるものが溢れている。私はあまりビジネス書を読む方ではないかもしれないが、それでも言えるのは、私が仕事をする上で、役に立つビジネス書というものはあまりに少ない、ということだ。それは私の仕事に必要なスキルの援けになる、と言う意味ではない。そういう小手先のものではなく、会社とは何か、仕事とは何か、という根本的な問いに答えるような書物があまりにも少ない、ということだ。
しかし、それは、哲学なり文学の領域の問題なのかもしれない。「○○しろ」「××するな」といったビジネス書はそういう問いに答えることはない。私たちは自分の仕事がそんな割り切れるものではないと感じているからだ。ビジネス書を読むひつたちは、ビジネス書を読んで、そうじゃないよな、こうじゃないよな、と思いながら答えを求めているのではないのだろうか。「○○しろ」「××するな」と書いてあることを信用するビジネスマンを私は信用できない。「○○しろ」「××するな」と言われてそうだ、そうしよう、と思うことは明らかに思考停止だ。答えはそこに与えられているものではなく、答えを見つけようとするのがビジネスだろう、と思ったりもする。
また、この本は「知」についても触れている。ネットには「情報」が溢れている。その「情報」にアクセスする手段を知っていること、これをネット至上主義者は「知」と呼んでいる。しかし、「情報」はどれだけ集めても「情報」でしかない。「いざとなればネットから情報を取って来れる方法を知っている」ことは「知」とは呼ばない。
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