『レヴィナスと愛の現象学』(内田樹著) 「哲学とは常に他者を目指している言説である。」 だから、対話する他者=「師」が必要なのだろう
内田センセーによるレヴィナス3部作の第一弾。しかし、私は今後もレヴィナスの著書を読む予定は今のところない。したがって、私はこの本の想定されている読者ではない。内田センセー曰く、それは他人の手紙をのぞき見るようなもの、なのだろうが、まあ、私の時間だ。どう使おうが良いだろう。
最近は、アルファブロガー氏が「師は詐欺師の師」などと訳のわからない言葉で内田センセーを非難しようとしているようだ。そのひとは、自転車が乗れるようになるのに師はいらない、師なんかいなくても自分で何でもできるもん、と言ってる。自分は自己完結しているから、師など要らない、というのが某アルファブロガー氏の言い分なのだろう。
今は何でもググれば情報が入ってくる時代。私たちは時に「グーグル先生」などと揶揄して言うのは言うが、「グーグル」を師と仰がない。「グーグル」の弟子などと自称するひとがもしいたとしたら、私はそのひととはお近づきにはなりたくない。そして、同時に、ググれて回答が得られることは「学び」とは言わない。せいぜい、カンニングができる程度である。
「哲学とは常に他者を目指している言説である。」とはレヴィナスの言葉だ。哲学とは単純な現象を複雑に語ることではなく、複雑な現象を単純な言葉で語ることである。そして、その言葉は他者に向けられるものではくてはならない。その言葉が他者を巡ってぐるりと自分に返ってくる。それが対話であり、それが哲学というものなのかもしれない。
唯一無二の師を持っことは、それによって唯一無二の自分を浮き上がらせることなのだろう。そして、師など要らない、と言っている人は、対話は要らない、と思っているひとなのだろう。アルファブロガー氏は何万アクセスがあっても、その言葉は他人に語りかけるふりをしながら、対話など望んでいないのかもしれない。
« 『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?【ミスを最大限に減らしベストの決断力を持つ!】』(アトゥール・ガワンデ著) 「チェックリスト」は危機管理の基本。平時だけでなく予測できない非常事態にも有効 | トップページ | 『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』(内田樹著) 「何が言いたいのかよくわからない」からこそ、私たちは本を読む »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 【安吾を読む】『木枯の酒倉から 聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話』「俺の行く道はいつも茨だ。茨だけれど愉快なんだ。」(2014.07.11)
- 『金融緩和の罠』(藻谷浩介・河野龍太郎・小野善康著、萱野稔人編)金融緩和より雇用を増やすことこそがデフレ脱却の道。(2014.07.10)
- 『ひとを“嫌う”ということ』(中島義道著)ひとを「嫌う」ということを自分の人生を豊かにする素材として活用すべき。(2014.07.09)
- 【安吾を読む】『街はふるさと』「ウガイをしたり、手を洗ったりして、忘れられないようなことは、私たちの生活にはないのです。」(2014.07.08)
- 『天災と日本人 寺田寅彦随筆選』(寺田寅彦著,山折哲雄編)地震や津波といった天災からこの国を守ることこそが「国防」である。(2014.07.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント