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2011年6月11日 (土)

『哲学個人授業』(鷲田清一、永江朗著) 生まれたのは偶然。でも、生きていくのは必然。しかし人生は必然ではなく、偶然の連続である

「哲学者の書くとぎすまされた言葉には、歌舞伎役者の切る「見得」にも似たぞくっとする魅力がある。」という宣伝文句のとおり、古今東西の哲学者の「殺し文句」から、その哲学者の思想について、哲学研究者の鷲田清一さんと哲学マニアの永江朗さんが対談して解説する、という形式を取っている。

ただ、お二人とも大学で哲学を学んでいることから、哲学に関してある程度の前提知識がないと、言っていることがよくわからない部分もある。もともと哲学書というものが、小難しい言葉で書かれているので、それだけで敬遠しがちだ。しかし、文庫版オマケの「幸福について」で語られている通り、哲学というものは、そもそも「幸福とは何か」「幸福になるにはどうすればよいか」を問い続けた学問である。

私がグッと来たのは、アリストテレスの章での、ふたりの対談だ。私なりに要約すると、「生まれたのは偶然。でも、生きていくのは必然。しかし人生は必然ではなく、偶然の連続である。」

当たり前だが、私は自分が生まれてくる状況をコントロールできない。つまり、私が生まれてきたのは偶然である。しかし、生きていくことには、自分が生きていく自分を引きうけていく、ということ。つまり私はいろいろなものを背負って生きていくしかない。だが、人生は因果応報の必然によって一本道であるのではなく、人生にはいろいろな可能性があったはずだし、いろいろな偶然が作用して今の人生がある。自分が人生を選び取った、それは必然であった、と考えるのは原因と結果を自分が納得できるかもしれないが、一方でこうあらねばらなぬ自分というものを自作自演してしまわなくてはならなくなり、人生のいろいろな可能性を自ら狭めてしまうことにもなる。そうではなく、人生は偶然の連続であると考えた方が人生のいろいろな可能性を自分から狭めなくて済む。

自分の人生なのだから、自分なりの考え、哲学を持てば良いと思う。(それが傍迷惑なものでない限りは。)そして、そのために先人たちの言葉に耳を傾けるのは決して無駄なことではない。

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ところで、最近、哲学と言えば、マイケル・サンデル氏の『正義』の話が話題になっている。サンデル氏は究極の選択を提示しながら、「正義とは何か」、「正しいことを行うということはどういうことなのか」ということを突き詰めて考えよ、と言っている。私たちは正しいことをしたいと思っているが、常に正しいことを貫くことは難しい。しかし、あまり突き詰めて考えすぎると、正しいことをしたって無駄じゃないか、と思ってしまう。 サンデル氏のように究極の選択を提示することから議論を始めるのも問題提起としてはひとつのテかもしれないが、そういう問題提起ばかりだと息が詰まってしまうのではなかろうか。


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