『不幸になる生き方』(勝間 和代著) 補助輪を外して、自転車に乗るためには、絶対に、いっぱいコケる。しかし、コケることを恐れていては自転車には乗れない
勝間さん自身が、「マーケット・イン」ではなく、「プロダクト・アウト」で書いたと言う本。つまり、何がウケるかではなく、書きたいものを書いた本。なので、読んでみようと思った。勝間さんの本を読むのは久しぶりだ。
「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探求することである。」この本の言いたいことはひとことで言うと、「自分の人生は自分で責任を持とう」である。それが自分の人生を生きる唯一の道である。そのためには、他人や社会や時代のせいにしないこと。
そういう生き方は、リスクを取る必要がある。どこまでリスクを取るかは、”自分”が決めれば良いことだ。だから、無理をしてまで”リスク”を取る必要もない。”リスク”を避ける、ということも、立派なリスク管理である。
この本で素晴らしいと思ったのは、勝間さんが、”彼岸”という考え方を持ち出したことだ。
右岸=他責のひと
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左岸=自責のひと
右岸から左岸に渡ることを勝間さんは薦める。そして、ここにはもうひとつ”彼岸”というものがある。
右岸=他責のひと
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~~~~~~~~~~~~~~ 彼岸=理想・幻想
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左岸=自責のひと
一時期議論になった「<勝間和代>を目指さない」の<勝間和代>は、まさに、この”彼岸”である。渡るべき川は、右岸と左岸を隔てているものであり、右岸と”彼岸”をの間にあるものではない、というのだ。
勝間さん、変わったな、と思った。
補助輪付きの自転車に乗っているひとが、補助輪を外したその瞬間から、勝間和代のように颯爽と自転車に乗れるわけは、ない。これまでの勝間さんの言い分は、勝間和代でさえ自転車に乗れるのだから、誰もが自転車に乗れるハズ、という展開だった。
しかし、補助輪を外した瞬間から、自転車に乗れるひとは、まずいない。絶対に、コケる。コケるのは一度ではない。何度も、何度も間違いなくコケる。
勝間和代は効率のひとである。だから、補助輪を外した瞬間から、誰もが自転車に乗れる、という幻想を抱かせてしまった。
そして、さあ、自分も勝間和代のように颯爽と自転車に乗るぞ、と意気込んで、スッテン転んで、何故自分は勝間和代のように自転車に乗れないのだろう、と無意味に悩んだり、落ち込んだり、自分はダメなんだと、違う意味で”自責”のひとになってしまった。
自転車に乗ろうと思ったら、コケる。誰もが、絶対に、コケる。その覚悟をすることだ。そして、コケるのは自分だけではない。誰もがコケる。コケるのは当たり前なのだ。どんなに効率良くやっても、間違いなくコケる。
そして、コケることを恐れず、コケることを繰り返し、それでもコケ続けたものだけが、自転車に乗れる。
自転車に乗れることがそのひとにとって幸福かどうかは、わからない。自転車に乗れないからといってそのひとが不幸かどうかも、わからない。
ただ、ひとつ言えることは、自転車に乗れないからといって、落ち込んだり、自分を恥じたりする必要は、どこにもない、ということだ。
![]() | ![]() | 不幸になる生き方 (集英社新書)
著者:勝間 和代 |
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