『ラプラスの箱』を巡る争乱は、ついに「重力の井戸」=地球に。
この第4話のユニコーンガンダムは、全く戦わない。敵モビルアーマーの前に立ちはだかり、敵パイロットと「対話」するだけである。ゼータガンダムからの影響なのか、ダブルオー(劇場版)のときも思ったのだけれど、ガンダムのパイロットはどうも「対話」したがるようだ。
「可能性に殺される」。バナージは可能性を信じている。自分の思いは例え敵として対峙している者にも伝わるはずだと信じている。しかし、自分が万能ではなく、自分の限界を知ったリディはそれに苛立つ。ガンダムが敵に銃を向けることができずにいるのとは対照的に、リディの駆るゼータプラスは前の時代の遺物のような(まるで恐竜みたいな)巨大モビルアーマーを撃破する。ゼータプラス、カッコ良い。そして、戦わないガンダムはカッコ悪い。
こういう言い方をすると、私が戦争好きに思われるかもしれないが、命のやりとりをする戦場で、なによりもまず「対話」という姿勢は死にに行くようなものだ。敵の前に丸腰で現れるなんて、殺してください、と言っているようなものだ。巨大モビルアーマーによる破壊を止めるためにまずすべきことは「対話」ではないだろう。一刻も早くそれを撃破して、戦闘を停止させることだ。それが戦場だろう。それをやらざるをえないから、戦いということは悲惨であり、悲劇なのだ。
最初のガンダムのパイロット、アムロ・レイは戦う前から敵と対話はしなかった。そして、ひとはわかりあえることができるか、それが叶うその瞬間にそのひとを失った。過酷だけれども、私はそれが真実だと思う。最初から「対話」でわかりあえる、という立ち位置は甘いし、間違っている。
もう一度言うけれど、戦わないガンダムはカッコ悪い。ひとはわかりあいたいけれど、わかりあえない。ひとはできることならできることなら戦いたくはないけれども戦わざるを得ない。だから、ガンダムという物語(悲劇)はひとの心に届くのではないだろうか。

